(写真提供=流通経済大学サッカー部)

 数多くのプロサッカー選手を輩出し、大学サッカー界屈指の強豪として知られる流通経済大学。全日本大学サッカー選手権大会優勝2回、総理大臣杯全日本サッカートーナメントの優勝3回、関東大学サッカーリーグ1部優勝3回など、数々のタイトルを手にして来た同大学を率いるのは名将・中野雄二監督。チームの監督のみならず、全日本大学サッカー連盟の副理事長、関東大学サッカー連盟の理事長を兼任している中野監督に、指導者となったきっかけや、コロナ禍において関東大学サッカーリーグの開催に至った経緯などについて話をうかがった。

ーーまずご経歴を教えていただけますでしょうか?

 私は東京生まれなんですけれども、5歳の時に父親の転勤で、茨城県古河市に移りました。高校は古河第一高等学校に進学してサッカーをやっていまして、1年生から全試合出場し、全国高等学校サッカー選手権大会では1年生の時(昭和53年)と、3年生の時(昭和55年)と2度の優勝を経験しました。3年生の時はキャプテンで、日本高校選抜ではヨーロッパ遠征にも行きました。

 その後、法政大学に進学して大学でも1年からレギュラーでした。ケガなどを除いては全試合に出場し、大学4年生の時はキャプテンをやっていました。その後、水戸短大附属高等学校(現・水戸啓明高等学校)に社会科の教諭として赴任し、5年半教鞭をとりながらサッカー部の監督をやらせていただいて。その後、プリマハム株式会社に入社してコーチをやっていたんですけれども、プリマハム土浦FCというチームが、茨城県社会人サッカーリーグ1部など多くの大会で優勝して関東サッカーリーグに昇格し、その後も好成績を残しJFLに昇格したんです。1997年にチームが水戸ホーリーホックという形に変わりまして、私は初代監督に就任しつつ常務取締役も兼任していました。当時のJFLには、川崎フロンターレやヴァンフォーレ甲府、モンテディオ山形といったそうそうたるチームが名を連ねていまして、1年目は最下位に沈みました。その責任を取って監督を辞任したんです。その後1998年に流通経済大学サッカー部の監督に就任しまして、今に至るという形です。

ーー指導者を目指したきっかけなどを教えていただけますでしょうか?

 私が現役だった頃の日本は、オリンピックもワールドカップも出場することができないという状況でした。大学を卒業する時はまだJリーグもない時代でして、日本リーグのいくつかのチームからオファーをいただいていたのですが、その時の私には大変失礼ながら日本リーグに行く魅力が感じられなかったんです。

 というのも当時は元旦に開催されていた天皇杯の決勝でも観客は1万人にも満たなかったくらいですし、高校サッカーの方が断然人気がありました。そういう背景もあり日本リーグでサッカーはやらなかったのですが、サッカーが嫌いになったわけではなく、むしろ長く安定してサッカーに携わるにはどうしたら良いかを考えた時に、教員になることがベストだと考えたんです。志としては良くはないかもしれませんが、サッカーに携わりたいから教員の道を選びました。

 まあ教師になったらなったで、わら半紙に自分で印刷して試験問題を作ったり、クラスの担任になると調査書なども書かなければならなかったりと、思った以上に大変でしたけれど。

 そうして教師を続けていた中で「日本にもプロリーグができそうだ」という情報が入ってきてその後Jリーグが発足したんです。プロができたのならば、「プロチームの監督になりたい」と思ったのですが、いきなり強豪チームの監督になれるものでもありませんので、まだ歴史の浅いチームの監督になって、そこを強くしていけば上に上がっていけると考えて「プリマハムFC土浦」という県リーグのチームの監督を引き受けたんです。

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