malvaサッカースクール 浅野智久代表

 現在、小さなころからサッカーを学ぶ子どもが増えてきている。以前はクラブチームやサッカースクールなども少なく、身近にサッカーと触れ合う環境が整っていなかったが、今では民間のスクールからプロのクラブチームが運営するスクールまで多彩なだけでなく、ライセンスを所有している指導者も増え、日本代表クラスの選手たちの多くが、サッカースクールでプレーを学んでいる。そんな中、数多あるサッカースクールにおいて、大津祐樹選手(ジュビロ磐田)や上田綺世選手(鹿島アントラーズ)、古賀太陽選手(柏レイソル)ら多くのプロ選手を輩出している「マルバサッカースクール」が注目されている。「1対1」つまり、個の力のレベルアップを重視した指導をしているという注目のスクールについて、代表である浅野智久氏に話をうかがった。

ーーまず浅野さんの経歴を教えていただけますでしょうか?

 茨城県水戸市出身で、サッカーは近所の少年団みたいなところで始めました。父親が「やるならレベルの高いところでやるべきだ」という考えだったこともあって、小学校5年の時に読売クラブ(現東京ヴェルディ)のセレクションを受け、合格して入りました。水戸から片道3時間くらいかけて週4日くらい通っていましたね。中学1年まで。その後に選手や指導者としてもご活躍された杉山隆一さんに見ていただく機会があってヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に2年ほどお世話になりました。当時のヤマハには国士舘大学出身の方が多かった影響もあって、国士舘高校に入ったんですけど、高校1年の時に前十字靱帯を切ってしまう怪我をしてしまい、ほぼほぼ3年間プレーをすることができなくて。その後国士舘大学に進学したんですけど、リハビリなども兼ねてブラジルに行きました。その当時はまだカズ(三浦知良)さんがブラジルにいたので、カズさんやカズさんのお父さんにもすごくお世話になりましたね。ヤマハでも同僚だったゴン(中山雅史)さんも3か月くらいブラジルで一緒だったこともありました。

 ブラジルではマリリアというチームでプレーして、その後にマルシオ・サントスがいたノボリゾンチーノというチームでプレーしました。その後は1部リーグのボタフォゴ・ジュニオールと契約しました。試合には半分くらいしか出場できなかったですけど、ライーとかソクラテスが所属していた伝統あるチームでプレーできたことはとても幸せでしたし勉強になりましたね。

 日本に帰ってきて清水エスパルスのセレクションを受けて合格し、清水エスパルスにお世話になりました。当時は長谷川健太さんや澤登正朗さんらがいまして、いろいろなことを学ばせていただきましたね。ただプレーヤーとしては足の怪我が影響して良いプレーはなかなかできなかったですね。

 その後、イタリアのセリエAに挑戦しようと思ってTBSに企画書を持ち込んだところ、『地球 ZIGZAG』という番組に採用されまして。実際にセリエAに挑戦しました。当時はまだカズさんもセリエAに行く前でしたし、ただこの経験が後の財産になればいいなという思いで挑戦したんです。イタリアには2か月くらいの期間滞在してテストを受けたりしたんですけど、後にイタリアの代表監督も歴任するチェーザレ・ブランデッリというコーチに高く評価していただいて、「練習生として一年間やらないか?」という話もいただいたりしました。ブランデッリは指導者として優秀だったので、スペースの空け方とか使い方とか、技術の必要性などわかりやすく教えてもらいました。狭いエリアの中、ごまかしの効かない中でのボールの持ち出し方や運び方など、僕の指導者としてのベースを作ってくれたのは、この時期だったのかなと感じています。じつはその後にスイスに行き、飛び込みで、とあるチームに「俺をこのチームに入れてくれ!」というボードを持って一週間くらいアピールしたこともありました。根負けしたのか練習には参加させてくれましたね(笑)。そういうバイタリティはありました。

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