三代目の磯貝監督は65年4月に着任し、99年3月まで長きにわたって名門校の指導に当たった。

 就任2年目の66年度のチームは、初開催されたインターハイで準優勝すると、第45回全国高校選手権でも3位入賞。2年連続出場した翌年のインターハイでは初優勝を遂げるなど、早々に結果を出した。71年のインターハイで3位に入ると、翌年度の第51回全国高校選手権では藤枝東(静岡)を延長の末2-1で破り、4度目の頂点に立った。横浜マリノスなどで監督を務めたエースFW清水秀彦が決勝点を挙げ、名古屋グランパス監督などを歴任した1学年下の田中孝司がゲームメーカーだった。

 磯貝先生は後年、この優勝について「雨でグラウンド状態がひどくてね、テクニシャンぞろいの藤枝東が技術を発揮できなかったんだよ。雨が降っていなかったら、勝てなかったと思う。ツキがあったね」と冗談交じりにこう話した。しかし、初出場したインターハイ決勝では藤枝東に敗れていただけに、負けん気の強い磯貝先生は雪辱を果たし、大いに留飲を下げたことだろう。

 この後の埼玉は浦和南が第二期黄金時代を迎え、私学の武南が台頭してきたことで、浦和市立の全国高校選手権出場は縁遠くなる。

 浦和南・松本暁司監督、浦和西・仲西駿策監督、武南・大山照人監督、大宮東・中村崇監督らとし烈な覇権争いを展開していた。

【次のページ】 厳しさといたわりで古豪を率いた名将・磯貝純一監督(3)