でも、振り返れば僕が南宇和で監督を始めた時は石橋先生が創ったもの(注:南宇和高校をトップとする少年サッカーからの育成組織づくり)を受け継ぐことに必死でした。そこでコーチ時代含め6年間を過ごしたことが、松山工に行った時にも活きたと感じています。

 松山工に転勤してまず思ったのは「(学校・県庁所在地の松山市がある)中予地区の高校サッカーが、(南宇和のある)南予地区と比べて子どもの人口も多いのに勝てないのはおかしい」。そこで最初に手を付けたのはトレセンを作って地区で子どもたちを育てていく。兵頭(龍哉・松山北監督、現:今治西監督)さんや坂本(哲也・東温監督、現:松山工監督)を呼んで指導者の育成にも手を付けたんです。

 実は松山工での最初の1年間は定時制で軟式野球部の監督をしていたんですが、違う種目で子どもたちの様子を知ることができたし、「中予地区をなんとかしていこう」という方向に取り組む時間も作れました。

 松山工の監督になって2年目(2002年度)には(22年ぶりの)インターハイと(学校37年ぶりの)選手権にも出ることができました。この時のチームは決して個の部分では実力的に強くはなかったけど、僕が言ったことを忠実に表現し、謙虚に闘ってくれる選手たちがいました。そこから中野 圭(FC今治)などがいたインターハイベスト8の年代につながっていったんです。

 それ以降になるとトレセンなどといった中予地区での強化も形になって、松山北や済美など逆に僕らが選手権に出られない(この間、インターハイは3度出場)時期が続くことになったんですが(苦笑)、「細かいところを大切にする」といった中学生たちが目指すところができたことはよかったと思っています。

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