履正社平野直樹監督(写真=会田健司)

 昨年度の第99回全国高校サッカー選手権大会に6年ぶりに大阪府代表として出場を果たし、先日U-24日本代表として国際親善試合・アルゼンチン戦でゴールを決めたJ1サガン鳥栖でブレイク中の林大地選手など、数々のJリーガーを輩出している履正社の平野直樹監督に、ご自身のサッカー少年時代のエピソードや、ベガルタ仙台トップチームの監督代行を務め、当時最年少でS級ライセンスを取得するなど、数々の実績を残してきた指導者についても話を伺った。

ーーまずは平野監督のサッカーを始めたところから教えていただけますか?

 育ったところが、野球が盛んな町だったので、元々は野球少年でした。でも小学5年生の時に親の都合で引っ越すことになって。そこはサッカーが盛んで、従弟もサッカーをやっていたので、そこに混ざる形でサッカーを始めました。小学校の少年団に入ったんですが、始めたころは本当に下手で、全然ちゃんとボールを蹴れなかった。地面を蹴って親指の爪が剥がれたのをよく覚えています(笑)。それで走ってばっかりでしんどいから1回少年団を辞めたんです。その後、町内会のサッカー大会に出ていたら、市の選抜チームに選ばれちゃって。5年生で選ばれたのが僕含め3人だけ。それでまたサッカーをやるかってことになったんですけど。

ーー地面蹴っているような子が、しかも5年生が選抜に選ばれるって事は、よっぽど足が速かったとか特別な能力があったのですか?

 足が速かったんですよね。馬力もあったし。それで中学校に入って、また野球をやるか、サッカーをやるか迷いました。結局サッカー部に入ったけど100%サッカーってこともなかった。でも2年生ぐらいの時にセントラルトレセンに選ばれて、3年生の春に中学選抜サッカー大会の東海選抜に選ばれた。そこで清水勢と初めて一緒になって、長谷川健太とか堀池巧とかと一緒になりました。それからはサッカーにどっぷりになっていきました。どっぷりになったらもう一直線。練習をやって帰ってきても、お袋がご飯作るまで家の前の駐車場でボール蹴っているような。やりだすと、とことんサッカー。そういう性格でしたね。

ーー高校はどうやって選んだのですか?

 色々悩みましたよ。帝京高校とか強豪校のパンフレットを取り寄せたりして。でもどこがどんなサッカーをやっているだとかは知らなかった。その時に四中工(三重県立四日市中央工業高等学校)の城先生から声をかけて頂いて。城先生のご実家が近所で、親同士が知り合いってこともあって、父親が「城先生の所なら」ってことで四中工に行くことになったんです。四中工が強いってことは知っていたから。それで高校に入ったら、走ってばっかりできつかった。一応1年生からAチームには入れてもらっていたんだけど、その時代は上下関係とかも色々厳しかったからきつかった。遠征メンバーに選ばれた時に、僕の代わりに外れた先輩のところに「自分でユニフォームをもらいに行ってこい」って言われて「すいません!」ってその先輩のところに行くんだけど、その先輩が10番だったんです。そこからずっと僕が10番。でも本当に下手で。一生懸命やるしかなくて。スライディングシュートとか泥臭いプレーばっかりだったから、全身傷だらけでしたよ(笑)。

ーー高校の時のポジションはどこだったのですか?

 FWです。でも、東海選抜にはDFで選ばれましたね。しかもCB。だから能力が高かったんですね(笑)。

ーーその時の平野君を今の平野監督が指導するとしたらどうですか?

 どうですかね。キックは結構得意で、足も速くて体も強かったけど。(今の子たちに比べたら)下手でしょうね。だから今のうちにしっかり技術練習をやらせると思う。静岡学園の子たちみたなテクニックは無理だから、しっかりボールを止められて顔を上げられるようにするでしょうね。

ーー城先生はどういう方でしたか?

 仙人みたいな人でした。よく覚えているのが「もっとできるのにな」とか「もっと走れるのに」っていつも言われていた。当時は試合に負けたりしたら殴られるみたいな指導が普通にあった時代だったけど、城先生にはそういう事をされたことがない。走らされることはあったけど、怖いなんて思ったことがない。今思えば、我慢して指導をしてくれていたんだろうなって思いますね。だからサッカーが好きなまま次のステージに進ませて頂いた。だから城先生のおかげで三重県にいい指導者が多いんだと思います。

ーーでは平野監督が一番影響を受けた指導者の方は城先生ですか?

 そうですね。城先生だと思います。考える力とか、乗り越える力を与えて頂いた。「『コーチどうするの?』って、こっち見ないでいいんだよ」とか、「どうにかするために自分で考えるんだよ」っていうような指導をしてもらった。システムとかポジションの話になったら「そんなの関係ない。そんなの子供たちが負けたくないから工夫して勝手に考える」って言う人だった。でもそうですよね。最初の配置が4-4-2だろうと3-4-3だろうと、試合が始まれば相手がいるんだから。相手より走って、どこに走ったら有利になるかって考えていったら、最初のシステムなんて関係ないですよね。それよりもここがチャンスだ、ここがピンチだって考えられて、それに対応できる技術と体力があるかってことが大事だから。そういう指導をして頂きました。

ーーそこから順天堂大学に進学しますが、大学はどうやって選んだのですか?

 指導者になるのに教職を取りたいって事で選んだのもあるんですが、しごかれるって噂があるところには行きたくなかったから。先輩がいたっていうのもあります。その当時、順天堂はまだ2部だったんだけど、凄く上り調子だったからいいなと思って。城先生のおかげで1年生の時から先輩とサッカーの話が出来て、試合にも出れた。仲間に恵まれて、総理大臣杯とかインカレも優勝できて、たまたま勉強の成績もよかったから松下電器(日本サッカーリーグ)に声をかけてもらって。

――松下電器に入る時は悩みましたか?

 正直悩みました。指導者をやるつもりでいたから。選手として試合に勝った負けたの楽しさも味わっているし。だから声をかけてくれるところがあるならやってみようということで松下に入った。それでありがたいことに天皇杯で優勝させてもらって、その後Jリーグになるということで釜本さんがいらして。92年まで選手としてやらせてもらったけど、以前から指導者になりたいと伝えていたから、契約更新の時にガンバユースのコーチをやらせてもらうことになりました。

次回は指導者になってからのお話を伺う。

(文・写真=会田健司)