四日市中央工サッカー部 伊室陽介監督(写真=四日市中央工提供)

 1983年度にはインターハイ、1992年度には帝京との両校優勝で選手権を制し、全国に「ヨンチュウコウ」の名でその名をとどろかせている四日市中央工(三重)。近年でも日本代表FW浅野 拓磨(パルチザン・ベオグラード<セルビア>)が2年生で大会得点王となった2011年度選手権では準優勝。昨年の全国高校サッカー選手権ではベスト8進出を果たした名門校である。

 そんな四日市中央工を昨年度から率いるのが、1992年度・選手権優勝メンバーの1人でもある伊室 陽介監督。今回は現役時代、コーチ時代の話も交え、数々のJリーガーを生み出している「四中工スタイル」の真実や、昨年選手権ベスト8の秘話。そして「これから」について前編・後編に分けて語って頂いた。

 前編では現役時代・コーチ時代の話と「四中工スタイル」の真実が明かされます。

樋口 士郎・前監督から学んだ「指導者としての姿勢」

 私は1973年4月9日生まれ。三重県四日市市出身です。小学校の少年団に兄が入った影響で小学校2年生からサッカーを始め、地元の常盤中学校で三重県トレセンの選抜チームにも入れて頂きました。 その時に小倉 隆史(元日本代表FW・元名古屋グランパス監督)や中西 永輔(1998年フランスW杯日本代表DF・元ジェフ市原など)、中田 一三(前:京都サンガ監督)とかとは「みんなで四中工に行って一緒に選手権優勝を目指そう」と言っていましたし、四中工も自宅から自転車で10分くらいの距離でしたので「自分たちも選手権の場所で活躍したい」ということで進学を決めました。

 

 四中工では城 雄士先生が監督。3年になると僕の前に監督をされていた樋口 士郎先生(現:JFLヴィアティン三重アカデミーダイレクター)が教員のコーチとして加わりました。城先生がどっしり構えて、樋口先生が僕らの兄貴分として指導する形ができた。そこが僕らにとっては大きかった。結果、3年生での選手権(1992年度・第71回)では帝京と両校優勝できました。

 城先生は当時としては画期的な戦術を採られていて、身体能力が高くてスピードがある(中西)永輔をサイドバックに置いて3列目から仕掛ける。ドリブルでは相手は止められないんですし、上がったらクロスかシュートで終わる。174センチでもヘディングも負けない。後に彼は1998年W杯で日本代表になりましたが、たぶん野球とかをしても日本代表になっていたと思います。

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